2013年3月31日日曜日

モテたいなら冗談を言え!!


誰しも人と仲良くしたいって願望を持ってると思います。
いつも皆から囲まれて楽しそうにしてる人、羨ましいと思いませんか?

ああいう風になるのはどうしたらいいのでしょう。

人気を掴むための要素はいくつかあると思います。
例えば、秀でた特技などはわかりやすい手段のひとつでしょう。

しかしそれは、特技に対して相手が魅力を感じるのであって、自分から相手に働きかけられるものではありません。
相手が興味をもってくれなければ意味がないのです(仲良くなるという点においては)。

となれば、幅広い相手と自分を繋げるための手段は、会話が主になるでしょう。
会話の中で相手を楽しませるなら、話し上手になるか聞き上手になるか、どちらかです。

話し上手は技術的なものもありますが、つまるところ自分の経験からしか生み出せないものですから、そこに自信がなければ相手に対して働きかけられる可能性は高くはありません。
しかし、聞き上手は、相手を受け止めさえすればいいのですから、高い順応性・汎用性があります。

ですが、どちらのアプローチをとるにせよ、会話に華を添えることは必要となります。
はじめは表層的な会話しかできなくても、次第に深いところまで話し合えるようになります。
問題は、その段階まで辿り着くことです。

多くの場合は、最初の話のきっかけが掴めず、結果としてお互いを表面的に知るところでコミュニケーションが終わってしまいます。
ですから、それまでの短い間に、親密度をいかに高めるかが次のステップへと進む鍵となります。

そこで、親密度を高めるために必要なのは、冗談を言えることだと感じます。
何故なら冗談というのは、信頼の下に成り立つコミュニケーションだから。

冗談を冗談と理解するには、「この人は本当はこういう人ではない」と思わせるほどに、自分の事を知ってもらう必要があります。
だから悪い冗談を言っても許される人がいたとしたら、「心根は優しいやつだ」とか思われてるんでしょう。
よくわからない奴に言われた冗談なんて、本当かどうか判断する術はありません。

親密度を測るには冗談をうまく使いましょう。

しかしこれは鶏と卵であって、仲良くなって信用できる間柄だから冗談が通じるのであり、また冗談が通じるからこそより仲が深まるというもの。

つまり、仲良くなるためにいきなり冗談を使うというのは、自分という人柄を誤解されるリスクを伴っているのです。

しかし、真面目なことばかり言っているようでは聞いているほうはつまらない。

そこで、冗談を小出しに言うのが大切になってきます。
わかるように冗談を言うことで、「この人は冗談を言う人だ」と認知させることができなければ、何を言っても冗談と思ってもらえないからです。

ですから、初めての人や親しくない人に対して冗談を言うときは、必ず冗談と分かる形で伝えることが大切です。

冗談を言うときのコツがあるとすれば、明らかにおかしなことを言うとか、口調もちょっとおどけてみせるとか、相手に伝わってなさそうであれば、「冗談だよ~」と冗談であることを明確に伝えてあげるのもいいでしょう。

そうして冗談を言いつつも、真面目な側面も見せることで、メリハリのある魅力的な人間に一歩近づけるでしょう。

富裕層の人間は、概ね人間関係を作るのが上手だから地位を得られるわけですが、彼らは大抵、詩か、ジョークを嗜んでいます(国外の話です)。

それが意味するところはつまり、真面目な事を真面目に語ることは、愚の骨頂ということです。

真面目な話は常識的で、ありふれていてつまらないのです。
逆に、面白い冗談は大抵非常識です。

冗談でおどけてみせることは、非常識の塊のように思えますが、実のところは、常識的だからこそ非常識な行動に可笑しさを覚えるのですね。

だから、同じ冗談で笑うということは、常識や認識における、互いの共通性を確認していると言えるわけです。

その中で、非常識な発想も出来るという、意外性・万能性を示すことが、人間的魅力に繋がるわけですね。

2013年3月27日水曜日

妥協と恋


よく恋愛を語る場面で言われる、「理想が高すぎる」というトピックの話。

最近は娯楽が増えてきたし、夜中開いてる店も多い。
インターネットもあって、いつでも誰でも繋がることが容易な時代になりました。

そんな中で、特定の人と過ごす価値はどう変わっているんでしょうか。

テレビを見ていると、独身女性や草食系男子が増えてるとか言いますね。
もっと恋愛しないと!!って煽っているのをよく見かけます。

インターネット上では、「一人のほうが楽だから…」「面倒だし」という理由で、独り身の寂しさよりも楽さが勝つ人も増えているようです。

また、男女共に掲げる理想が高いというのもあるかもしれません。
何かしらに秀でている人はモテるし相手も選べるのでいい人が現れます。
けれど、他人より劣っている人は妥協するか、独り身を貫くかという選択を迫られます。

パズルのピースのように相性がピタリとハマっていけばいいのですが、現実はそううまくもいかないようですね。

さて、自分に自信のある人には関係ない話ですが、そういった選択を迫られたとき、あなたは妥協する派でしょうか?孤独と戦いますか?

どちらがいいとはいいませんが、私は考えてしまいます。
「自分に見合う相手だからこの人でいいや」という思考は、果たして恋や愛なのでしょうか。
一度好きになって恋は盲目になってしまえばそんな思案も必要ないのでしょうが、そんな機会に恵まれる人って多くはないような気もします。
じゃあ妥協して付き合う、くらいならいいですが、結婚とまで踏みきって幸せになれるかどうか。

結局の所、相手への尊敬がなければ尊重する心も生まれないと思うんですね。
なので気持ちを無理やりねじ曲げて、周りの目が気になるから妥協して結婚するというのは、なんだか違うように思うのです。

しかし、残念ながらこれは理想論ですね。
自分が尊敬できる相手というのは、得てして自分より上のレベルにいる存在ですから。
ぴったり合う相手なんてのは、なかなか見つかりませんね。

また、不景気による男性の収入低下も影響しているようですね。
年収300万以下は、結婚も望めないとか。
女性も人生がかかってるし、選びたくなるのは当然のことだと思います。
ただ、弱い者同士が力を合わせて生きていく、という発想にはならないんだなあって少し寂しくも思いますね。
共同生活で得する部分も大きいと思うのですが…自分の身に置き換えると弱腰になってしまいますね。
それだけ、自立した人間が少ないのかもしれませんね。
どこかで相手に頼っているというか。
もちろん頼ることも必要ですが、何事にも限度はありますからね。

かくいう私は、甲斐性なしの結婚考えられない派なんですけどね。

皆さん事情はあるのかなと思います。
ただ、個人主義もここまで進むと、少し心配になる部分もありますね。
私が甲斐性のある人間だったら、絶対結婚するんだけどな。
皆そう思ってるか(笑)

2013年3月26日火曜日

ハングリー精神


「将来が怖い、どうなるかわからない」

そう言ったら、親にたしなめられました。
あなたが必死になっているところを見たことがない、と。

恐らく、専門学校や大学の卒業という時期、沢山の人が同じようなことを考えるんだと思います。

今まではただ何も考えずに勉強や運動だけしていれば良かったし、困ったときは周りが助けてくれました。
進路だって、周りを見回しながら、なんとなく先の見通しが良さそうな方向についていきました。

でも卒業してしまったら、そんなやり方は通用しない。
いくら怖くたって自分でやらなきゃいけないし、自分で責任をとらなきゃいけない。

独力でやっていくことへの不安が、とても大きな存在として覆い被さってくるような気がします。
そもそも生きていくことそれ自体、誰に頼まれてやっているわけでもないのに、とさえ思います。
もちろんそんなこと言えやしませんから、口はつぐみます。

そういえば、必死になるって言葉の意味を知りませんでした。
なんとなくこんな感じだろうなって想像はしていました。
でも、自分で体験したことはないな…って思います。

必死の意味を調べてみたら、辞書にはこうありました。


必死とは…

  1. 必ず死ぬこと
  2. 死ぬ覚悟で全力を尽くすこと。また、そのさま。死にものぐるい。
  3. 将棋で、次に必ず王将が詰む、受ける方法がない状態。


今回言っているのは、2番の意味ですね。

でもこれって…死ぬのが嫌だから頑張れるんじゃないですか。
頑張って生きるために死ぬ覚悟をするなんて、なんか不思議な感じがしませんか。

じゃあ生きることに疑問をもってしまったら、必死になれないじゃないですか!!(怒

でもね、本当に死ぬ思いしたことあるかって訊かれたら、ないと思います。
食うに困ったことはないですし、学校も無事卒業してます。
道端でいきなりチンピラにナイフを向けられたこともないし、車にはねられたこともありません。
そういえば、自転車乗ってるときにはねられました。当てられた程度ですけど。

お前贅沢言ってるよ、って言われてしまったら、それまでかなとも思います。
本当に生きたいやつの気持ちが分かるかって、わかりません。すいません。

思えば、何かを欲したときに、手を伸ばしたことが殆どないように思います。
つまり、ハングリー精神がまったくない。

親が世話を焼いてくれたので、それに甘えすぎました。
一時期は親を責めたことがあります。甘やかしたよねって。
でも凄く後悔しています。

親が甘やかしてくれたのも親心からだし、何よりほったらかしといた日には私は死んでしまっていたに違いない。
それだけ生きる力がなかった。
だから甘やかしたのも、彼らからすれば選択肢のない選択だったと思います。
それを証拠に、今の私はすっからかんです。
健康な身体も、冴えた頭ももちあわせていない。

こうしてぬくぬくと育った私。
今までが幸せだっただけに、これから転落人生が始まるかと思うと、いっそ時計の針が止まればと思うこともあります。

未来に明るい夢を持てないことほど、寂しいことはありません。
夢のない人間に、ハングリー精神や必死さを求めることは無意味です。

まず夢を見させてやらないと。

…というわけで、皆さんは夢や欲望に忠実であってください。
別に他人に迷惑をかけなければいい。
毎日の楽しみが少しあるだけで、きっと人生って豊かになると思うので。

2013年3月25日月曜日

処女信仰


ネット上の某掲示板のまとめブログをみていると、定期的に処女信仰に関する話題が挙がる。
そしてコメント欄は大荒れする。

誰でも参加できる話題だけに関心も高いということだろうか。

処女信仰とは、誰にも身体を許してこなかった女性を好む考え方のことだ。
某掲示板ではそういった信仰を揶揄する意味で、信者に「処女厨」なんて蔑称がつけられている。

そして、処女厨vsその他という構図で、大論争が巻き起こる。
処女厨の主な言い分はこうだ。

①「人が汚したものなんて触りたくない」
②「性交渉は結婚してからすべき」
③「別れるような男に身体を許すなんてありえない」

それぞれ考察しよう。

①「人が汚したものなんて触りたくない」
この意見は分かる気がする。
他人がベタベタ触った人と密接に触れあうのは少し抵抗がある。
これは潔癖症みたいなものだから、好みとしては仕方のないことだと思う。
事実そういった経験が多いほど、疾病のリスクは高いと思われるので、ただの神経質と切り捨てることもできない。

心情の問題としては、好きな相手が自分だけのものであってほしいという独占欲の現れとも言えるだろう。
ただそれが、今現在だけでなく過去にまで及ぶという意味で強烈な束縛である。

女性側からすれば、男性が女性をモノとして見ているようで嫌かもしれない。
それこそアクセサリー感覚で扱っていると考える人もあるだろう。


②「性交渉は結婚してからすべき」
これに関しては、悩むべきところだ。
今時は婚前交渉が普通になっているし、嫁入り前の娘がどうの…ということもない。
これは避妊が確実性を増してきたからこそ、性交渉の重みがなくなってきたとも言えるだろう。
そのリスクを重くみるか軽くみるかの価値観の相違が問題となる。

大半の男性にとっては、他の男性の子供を養わされるのはもってのほかである。
浮気なんてありえないし、過去の男性遍歴も気になるのは当然だ。

ただ、婚前に互いをよく知らなければ長続きしないとも言えるだろう。
離婚原因の大きな要因として数えられる問題だけに、事前に見定めようとする考えは理解できる。


③「別れるような男に身体を許すなんてありえない」
これに関しては、完全に結果論だろう。
結婚したって別れることはあるし、誰しも間違いはある。
現状をみるに女性にはもう少し慎重さがあってもいいように思えるが、やはりどうなるかはわからないものだ。


そしてこれらの意見に対して、色々な反論が飛び交うのだが…。
大抵の場合、「中古(処女でない女性を指して)が必死だ」とか「童貞が何言ってるの」と言った架空の個人に対する誹謗中傷が繰り広げられ、両者は疲弊し、いつしか争いは自然消滅していく。

なぜこうも争いが激化するのか?
それは、この争いが単なる「処女信仰」を守るための戦いではないからだ。

この争いの根底には、人を見下す精神のぶつけ合いと、それに伴う自己の価値創出がある。

つまり、処女厨は処女の価値を認めているのではなく、処女ではない人の価値を否定することで、教義を守る自分を肯定し、そこに価値を見出している。
そして反対勢力も同時に、夢見がちな理想を否定して見せることによって、「現実を知る経験豊富で大人な自分」を演出する。
相互に批判し合うことで、自らの価値を高めようとしている。

そうした行為は、「自分への自信のなさ」あるいは「承認欲求」の裏返しである。

自分への自信を付けたい気持ちは理解できるが、人を貶して得られる自信なんてものはない。
ほんとに余裕があるなら、黙って好みの女性にアプローチすればいい。
何より、終わってしまったことに関してとやかく言ってもしかたがない。
正直な心情を吐露するのは仕方ないとしても、あえてキツい言い方で安易に他人を傷つける必要はない。

互いに無視をできないインターネット社会が生み出した禍根だと言える。


このテーマは関心を抱く人が多いようだ。
ネット上の争いとは別の切り口で追記をしておく。完全に私見だ。

私が思うに、恐らく処女に関する悩みは二種類あるに違いない。
それは、「処女は重くないか、かっこ悪いのではないか」というものと、「処女とは価値あるものなのか」ということ。

これらは字面上違った悩みのようにも思えるが、その根っこにあるものは同じである。
つまり処女性はプラスなのか、マイナスなのかということ。

私個人は、「年齢による」と思う。

例えば、若いうち、責任ももてない高校生が惚れた腫れたの流れに任せて、というのは聞いていて情けない。
人間の成長速度なんてそれぞれだし、決して身分や学年だけが個人性を決定するわけではないが、有事の際にどうすることも出来ない身分で責任を伴う行為に及ぶのは好ましくない。

逆にある程度の年を重ねて経験がないとなると、これは逆に何か妙だ、と勘ぐってしまうことはあるようだ。

だからといって焦る必要はないとは思う。
それらはあくまで一つの要素なのであって、すべてではない。

本当は、その人の今を見つめるのが一番だ。
人間関係は過去ではなく、現在のインタラクティブにある。

ただ、男の本音としては、他の男性と関係のあった女性を大切にする気持ちは、ほんの少しだけ薄れるのかもしれない。

同じ条件で、処女とそうでない人どちらがいいか、と問われたら、間違いなく私は処女を選ぶだろう。
そして大半の男性も同じだ。

しかし、人間なんて様々な要素で形作られていて、誰一人同じ人間などいない。
だから先ほどの問いは、前提からして破綻している。

処女性だけを切り取ることはできないし、そうではない人だけが得る価値もきっとあるはずだ。

すべては夢見がちな男共の夢想に過ぎない。
そんなものは蹴っ飛ばして進んでしまうのが健全だ。


[20131020追記]
何故、処女信仰が存在するか?

恐らく男性にとっては、本能的に他の男性よりも先であることが大事で、それは昔、子供を授かったときに誰の子供か判断する術がなかったからに違いない。

相手が処女であれば、生まれてくるのは自分の子供だという保証が得られることが、処女信仰の第一義だとされる。

これは一見まともな論理に聞こえるが、よくよく考えるとおかしい。
女性が子供を産むまでの時間は十月十日と言われるくらい精確なわけだから、それさえ考慮に入れれば自分の子供かどうかくらいわかる。

つまりリスクを避けるためには、相手が最後にいつ交渉したかさえ知っていればいいわけで、過去すべてにおける遍歴をチェックする必要はない。

それに、処女性や男性遍歴の申告は大抵の場合、女性の自己申告である。
つまり、求めたところで真実は闇の中だ。
だから、拘ったところで無意味である。

そこが、処女信仰が信仰を脱しきれない由縁であるかもしれない。


じゃあ処女信仰が一部の男性に支持される理由ってなんだろう、という話に移ろう。

女性を物扱いするようで申し訳ないが、つまるところ「お下がり」のような感覚なんだろう。
新しいものがいい、という無根拠な価値感を土台として、それを欲しがる。

もっと言うなら、自分は新しいもの(=いいもの)を与えてもらえるだけの人間だ、とどこかで信じている。

これはとても夢想的だ。

幼い頃に、どんな夢をもっていたか。
振り返ってみると、サッカー選手やプロ野球選手、女性なら花屋やケーキ屋などが上位を占めるだろう。
今はそんな夢、見れない。
大半の人間は、そういうものを捨てて、軌道修正して大人になってゆく。

それは、「分を知る」からである。
自分が与えられたものはどの程度か、外界と対話しながら探ってゆく。

だから、大人になってまで女性に処女性を求める男性は、自分に見合ってない望みをもっている夢想家のように思える。

処女厨とかいって否定されるのはそういう部分かもしれない。

処女がいいよね、というなら、それはかまわないことだと思うし、他人に否定されるいわれは無いかもしれない。
だが他人から見ると、現実を見ろと滑稽さを感じるのかもしれない。


よく言われるのが、処女というのは要素だから、要は中身なんか見てなくて、その事実だけあればいいんじゃないか、という話だが、処女も立派な中身の評価だと私は思う。

少なくともお金持ちだから凄い人、なんて価値感よりは人の評価としてよほど妥当なんじゃないか。
だから良いとか悪いというつもりはないが、判断基準として使われること自体には疑問は無い。

実際、恋愛遍歴やそういう部分での感覚というのは、生活面でも大きく関わってくると思う。

だから、処女を求めるやつは中身なんか見てない!ってのは間違いで、そういうことを言う人は少々的外れなことを言っているように思える。

ただ、処女は未来で変貌するかもしれないが、お金は貨幣価値が変わらない限り使えるという意味では、未来志向の判断基準としてお金のほうが有効かもしれない。

2013年3月24日日曜日

You Get What You Give


海外ドラマのGlee3を見ている中で、「You Get What You Give」という曲がでてきました。
タイトルの通り、「与えたものを得ることが出来る」という素敵な歌詞です。

でもね、与えるものがない人はどうすればいいんでしょうね。
そもそも、生まれながらにして得るのは、自分が与えたものではない。

結局の所、天運で貰ったものですよ。

心掛けとしては素敵ですよ。
でも最高にムカつく台詞だ。

与えるほどの余裕があったら苦労はしません。
与えるほどのものをもってる時点で恵まれてるんですよ。

与えたから得たわけじゃない。
もともと与えられたから与えられるんだ。

だから私はこの歌詞が半分好きだし半分嫌いです。
理想としては綺麗です。
でも出来ない自分は悔しいし、実現出来るほどclearに存在してる人が憎い。

たとえ希望をもっても、不平等が覆されるわけではない。

もちろん、そんな我侭を言っていたって誰も救ってはくれないし、どうしようもないことはわかっています。
けれど、あまりに綺麗過ぎる物言いって、ときに文句をつけたくなる。
倦んだ感情ってのはそういうものです。

一番悲しいのは、歪んだ見かたしか出来ない自分の心なんですが。

2013年3月20日水曜日

ファンタジック



私はファンタジーが嫌いだった。

ハリーポッターのように魔法が使える世界は、あまりにも不可思議過ぎて、現実から大きくかけ離れている。
あの世界には現実感がない。

だから、リアリティこそ正義だと考えてきた。

でも最近はそういうのも愛せるようになった。
ああいうものはそういうバランスの下に成り立っているんじゃないとわかってきた。

現実の厳しさを解放するのがファンタジー。
夢を与える。
現実での倦んだ部分を、一時だけでも消し去ってくれる。
だからファンタジーは凄い。

ただ難しいのは、ファンタジック過ぎると現実ではなくなってしまう。
だから、ほどよくファンタジーなのがいい。

人間が追体験できるレベルで、言われたら想像できるレベルで描かれる話。
だから面白い。

この間テレビで、「アリスinワンダーランド」を放送していて、やはり不思議の国のアリスの著者は凄いなと感心しきりだった。
ファンタジックな世界で得たものを、現実に活かしていく主人公の姿勢は最高に前向きだ。

現実とファンタジーのシーソーゲームをよく描いてある作品だなと感じた。

2013年3月17日日曜日

鬱は甘えか


やる気が出ない、倦怠感、何もしたくない…
鬱病、でしょうか。

現代は、新型鬱とかって呼ばれる、新たな鬱病が発生しているようで。
従来の鬱は行動全般にやる気が起きなくなる症状だったのに対して、新型は仕事とかだけ行きたくなくて、休日や趣味の時間はイキイキしてる症状を指すんですって。

そんなのが鬱であって溜まるか。

楽しいことはやりたいし、嫌なことはやりたくない。
当然でしょ。

そういう思考を実行に移す人たちは、楽しみのために仕事をしている、という感覚がないのかもしれない。
仕事があるからこそ楽しみがもてる。
じゃあ仕事も我慢して頑張ろう。
そういう思考になってないのかもしれない。

仕事が楽しくないのも問題だが、自分の生活をオンオフで考えすぎではないか。

某掲示板で「鬱は甘えか?」って議題が話合われていたが、どうだろうか。
私は甘えだと考えている。

例えば不細工や低身長に生まれたりしたら、それを人のせいにするか?
しないでしょう。

仮に人のせいにしたところで、何も解決しません。
だって、不細工だし、低身長だもの。

話の中心が鬱病になると急に、甘えかどうか議論しだすのは不思議な話で。
鬱だろうがなかろうが、世の中の役に立たないことには変わらない。
じゃあどうするか?立ち直る策を考えたほうが幾分マシである。

生まれ持っての性質を人に文句垂れたって、そりゃ甘えって言われます。
周りからしたら迷惑には変わりないもん。

そもそも鬱病が生まれ持っての性質かってのも問題ですが。
遺伝性の場合もありますからね、その場合は生まれつきですね。

でもね、だからって自分を責めていろって言ってるわけではない。
だって全部当人の責任かって言えば、ほんとのことを言えば、根源的にはすべて天運だからです。
皆、誰一人努力して生まれてきたわけじゃないもの。腹を痛めたのは親御さんであって、当人ではない。
だから、お前がうまくいかないのは努力が足りないからだ、なんて上から目線で軽々しく口にする奴はあほなんです。
じゃあ逆におめーは良く生まれてくるためになんか努力したのか、という話で。
偉そうなこと言ってる暇があったら親に感謝しなさい、という話です。

でもね、だからって卑屈になっていいってことではない。
本当に自分のためを思って言ってくれている人には、心の中だけでも感謝しなきゃいけない。

それに、すべてを天運のせいにするわけにはいかない。
だって、なんでもかんでも人のせいにしてたら、もう流されるままになっちゃうでしょう。

努力なんて意味ないかもしれないし、運命なんて決まってるかもしれない。
でも、そんなのは勝手な思い込みです。
そりゃなんでもできるってことはない。美女に生まれ変わるとかは無理。
でも、なんでもできないって思ってるとしたら、それは思い込みの可能性がある。
だから疑ってみるのがいい。
ちょっと人生生きたからって、全部分かった気になってやしないか、と。

私たちの運命がすべてを決定しているにせよしないにせよ、私たちは運命を切り開くために最善の努力をしなければならない。
なぜなら、私たちはどちらが真実か知り得ない以上、努力をしないという選択肢はありえないからだ。

2013年3月15日金曜日

死後の世界を信じるか?


天国と地獄って曲がありますね。
運動会の徒競走でよく流れてる曲です。
たしかに、トップランナーは天国、最下位は地獄なのかもしれない。


皆さんは、「死後の世界」って信じますか?

別にあるかないかを争点に激論を交わそうというわけではありません。
信じるも信じないも自由だし、見たことないので断言できないというのが公正な意見だと思います。

しかし見たことない人が大半なのに、その存在がまことしやかに語られているということは、ちまたで囁かれている死後の世界観は作られたものに違いない。

作られたからには何かメッセージがあるはずなので、読み取ってみよう。

まず天国というモデルから。
死後の世界をいい世界とすることの利点。
それは、死ぬのが怖くなくなること。

昔、お釈迦様が「生老病死」と語ったように、人生とは四つの苦しみで構成されている。
生きるのも死ぬのもまた苦しみ、ということだ。
ここで語られる死は死ぬ瞬間の苦しみのことだろうから、厳密には死後のことではないだろう。

で、何故死ぬのが怖いか。
それは、未知の世界だから。
生きていると、今までの経験からこれから起こることも、なんとなく予想が出来る気がする。
しかし、死ぬということはまったく経験がないので、生きるのと比べるとちょっと怖い。

つまり我々は生と死の幸福量を比較して生きている。
生に苦しみしか感じなくなったとき、死んだほうがましになって自殺する。

地獄というモデルはどうか。
地獄があると、悪いことがしにくくなる。
だって、この世が嫌になって、自暴自棄になったとき、「もう死んでやるーっ!!」ってなって、じゃあ思いきり周りに迷惑かけて死んでやる!!って思われたら困る。
だから、この世で悪いことすると、あの世で酷い目に遭うぞ、って言っておくと、思い切った行動に出られなくなる。
この世で憂き目にあっている人が自棄にならないためのストッパーなんだな、って思った。

心理学者の苫米地英人さんは、来世があると信じるのは危ないモデルだと言っていた。
何故かというと、輪廻転生の概念によって、カーストの制度がうまれるから。
生まれながらにして魂のレベルが高いとか低いとか言いだすと、上下関係が生まれちゃうし。

死後のモデルを想定するということは、死後にも自分の存在はあると信じることに他ならない。
それが上記のように役立つかもわからないし、役立たないかもしれない。

宗教が良い方向にいくのも、悪い方向にいくのも、教団の長次第ってこと。

2013年3月12日火曜日

コールド・リーディング


コールド・リーディングを知っていますか?
事前のリサーチ無しに、相手の情報を探る方法です。
相手のことをあたかもお見通しかのように話す技術です。

その一例を示します。

Q. あなたってもしかして、お菓子が好きだったりしませんか?

YESと答えたあなたは、「なんでわかったのかな」と思うかもしれません。
NOと答えたあなたは、「なんでそんなこと聞くのだろう?」と思ってるかもしれません。

YESと答えた人が「なんでわかったの?」と訊き返してきたら、もっともらしい理由をつけます。
「だって、好きそうな顔をしてたから」

騙されやすい人は、「そんなことでわかるのかな…」と思います。

NOと答えた人は、「どうしてそうおもったの?」って訊くと思うので、「なんとなく」と答えておきます。

このシステム、実はずるいってわかりますか?

当たれば+1ポイント、はずれれば0ポイントなんですよ。
つまり、ノーリスクなんですね。

やりつづければ、相手のことを当てまくる凄い人になれます。
もちろん、タネがわかってる人は騙されませんが。

お守りを信じるか?で書いたお守りというシステムも同じです。

お守りをもってる状態で事故ったら「お守りをもってたおかげでこの程度で済んだ」と思うか、「お守りをもってたのに事故をした」と思うかのどちらか。
これは、+1ポイント、0ポイントシステムですね。
つまりリスクがないんです。

だから長期的にやりつづければ信じてもらえます。

宗教とか、相手を騙す技術というのは、実は高度に逃れられない論理トリックを利用しているとわかりますね。

2013年3月11日月曜日

お守りを信じるか?


Q. あなたはお守りを信じますか?

私は信じません。気休めだと思います。
では質問を変えましょう。

あなたは事故に遭いました。
命を落とすことはなかったけれど、軽い傷を負いました。
そのとき交通安全のお守りを持っていた。

このとき、
「お守りをもっていたのに事故に遭ったのか」
「お守りをもっていたからこの程度で済んだのか」

お守りを信じているかという質問が、より具体化されましたね。

前者と答えるあなたはお守りを信じない派、後者なら信じる派。

では、信じない派だったあなたはお守りを捨てることが出来ますか?
出来るなら、あなたは本物。

お守りの効力のあるなしは、わかりません。
お守りをもっていたからこの程度で済んだのかもしれません。
わからない以上、もっといたほうが得ですよね。

だってお守りをもってたから助かったか、もってても変わらないのかどっちかですから。
あえて手放す理由はありません。

そう考えると、お守りってちょっとずるいと思いませんか?
そりゃ長年、文化として残るわけですよね。
論理的に追及できない以上、信じたほうが得なんだし。

こうして事実に解釈を後付けするやり方は、永遠に科学とは成り得ません。
論理的に「反証不可能(証明不可能)」であり、科学とは相反するものです。

かといってお守りすべてが嘘と断言はできない。
あくまで効力の測定が不可なのであって、無効であるとは言えないのです。

信じるかどうかは個人の自由ですが、客観的に信じるに足るかどうかはまったくの謎。
少なくとも上記のように後付け解釈が出来てしまう以上、都合よく捉えることも、悪くとらえることも可能です。

実はこれと同じ方法が話術にもあります。

コールド・リーディングというのですが、それについても記事を書いてるのでよかったら読んでみてください。

・追記
同じ内容が、「知性の限界」という本に載っていました。
科学と非科学の比較として、上記の例が挙げられています。
面白い本なので、おすすめしておきます。

2013年3月10日日曜日

運命を信じるか?


以下の三つの質問に直感的に答えてみてください。

Q.1 あなたは、運命を信じますか?

Q.2 では、科学を信じますか?

Q.3 運命と科学は相反する概念でしょうか?



「運命」とは、

1. 人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。また、その力によってめぐってくる幸、不幸のめぐりあわせ。運。

2. 将来の成り行き。今後どのようになるかということ。

ということだそうで。
今回使う「運命」は、2番の意味合いです。


正確には、

「運命的」…運命として決まっているさま。

のほうが意味として近いかもしれません。
「運命的な出会い」など、事前に決定づけられているということですね。


さて、冒頭の質問に話を戻しますと、Q.3にYESと答えた方。

ほんとうにそうでしょうか。


科学的とは、

1. 考え方や行動のしかたが、論理的、実証的で、系統立っているさま。

2. 特に自然科学の方法に合っているさま。


今回用いる「科学」は1番の意味合いです。


現在、科学はとっても発達してきています。

たとえば、我々が携帯電話やテレビを使えるのは、科学の恩恵によるところが大きいですね。

こういった恩恵は、「こうなったらこうなるはずだ」という科学的な考え方に基づいています。

これが、論理的ということです。

そして実際に試してみたら出来た、これが実証的ということです。



その考え方が万物に通用するようになったら、どうなるでしょうか?

未来を予測できるようになりますね。

こうなったらこうなるはず…という推測を組み合わせていけば、これから起こることすべてがわかるわけです。

科学の究極形ですね。



そしてこの考え方は、この世の森羅万象が因果法則に支配されているという信条の下に成り立っていますね。



つまり、すべてのことは事前に決定づけられてると考えてるわけです。

これって、「運命的」ってのと同じですよね。


だから、運命的と科学的ってのは、相反する響きに聞こえて実は、根幹にある考え方は一緒なんですね。


※こぼれ話
来予測は出来る見込みは薄そうです。
科学では観測の限界というのがあるらしく、我々がこの世のすべての状態を知るということはありえないので、完全な予測は出来ないとされています。
運命があるかどうかは永遠に謎のまま。

第二の夢


小さいころになりたかったもの。

近年の小学生のなりたい職業ランキング。
男子がスポーツ選手、警察官、運転手。
女子がお菓子屋・パン屋、タレント、花屋さん。

ジェンダーフリーが叫ばれる中、男女ではっきり分かれているのが面白い。
待遇関係なく印象だけで選ぶとこうなるということだろう。

歳を経ていくと、夢なんてものは正直に言えなくなる。
語る夢が大きければ大きいほど、周囲の嘲笑が怖くなるもの。
無理からぬ夢を否定されるということもありうる。

生きていく上で大切なことは、第二の夢をもつことだと思う。

大人に向かって歩を進めるにつれて、誰しも自分の望み通りになれないことを知る。
そのとき、腐ってしまわないことが大切だ。

「第二の人生」なんて言葉があるように、何かに挫折したら、しばらく休んで、また歩き出す。

そもそも職業=夢というのも違うのかもしれない。
何かを職業にするということは、その道のプロとしてやっていくことであって、周囲から認められることでもある。
それは、自分の承認欲求を満たすうえでも、社会参画を果たすうえでも大事なことだ。

しかし最近は景気が不安定なこともあって、公務員を目指すものも多い。
「安定指向」というやつだ。
そこには職業と夢を直結た発想はなく、のんびり生きたいから公務員、という思考がある。

いつまでも夢を追い過ぎるのも見ていて苦しいが、最初から収まりすぎているのも面白くない。
何かを思いきりやって、思いきり挫折し、思いきり第二の人生を歩んでいる人は、みていてどこか清々しい。

夢を追いつづけるだけでなく、諦めることもまた一つの勇気なのだと、個人的には感じている。